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商品説明 出荷目安の詳細はこちら商品説明アーベントロート/シューマン第4番、チャイコフスキー第4、6番、ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(2CD)アーベントロートがドイツのエテルナ・レーベルでレコーディングしたシューマンとチャイコフスキーの交響曲、ドヴォルザークのチェロ協奏曲は、モノラルながらバランスの良い聴きやすい音質として知られています。 今回は「エテルナ・オリジナル・マスター・シリーズ」からの登場で、マスターテープから新たなマスタリングがおこなわれているため、音質向上が期待されるところです。 下の楽譜画像はシューマンの交響曲第4番第4楽章冒頭です。絶望から希望、あるいは暗闇から夜明けに向かうこの部分で、アーベントロートの示すドラマのシリアスな魅力はシューマン暗部に注目する向きには堪らないものと言えそうです。 なお、ブックレットには使用したマスターテープの箱の写真も掲載されており、歴史的ドキュメントとしてのリアリティもあります。マスタリング・エンジニアはいつものクリストフ・シュティッケルが担当。 収録情報Disc 1●ドヴォルザーク:チェロ協奏曲ロ短調 op.1041.I Allegro2.II Adagio, ma non troppo3.III Finale, Allegro moderato録音:1956年3月28日、ライプツィヒ●チャイコフスキー:交響曲第4番ヘ短調 op.364.I Andante sostenuto - Moderato con anima5.II Andantino in modo di canzona6.III Scherzo. Pizzicato ostinato. Allegro7.IV Finale. Allegro con fuoco録音:1951年2月13日、ライプツィヒDisc 2●シューマン:交響曲第4番ニ短調 op.1201.I Ziemlich langsam -Lebhaft2.II Romanze. Ziemlich langsam3.III Scherzo. Lebhaft4.IV Langsam – Lebhaft録音:1949年9月18日、ライプツィヒ●チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調 op.74「悲愴」5.I Adagio. Allegro non troppo6.II Allegro con grazia7.III Allegro molto vivace8.IV Finale. Adagio lamentoso録音:1952年1月28日、ライプツィヒライプツィヒ放送交響楽団ヘルマン・アーベントロート(指揮) マスタリングについて〜クリストフ・シュティッケル(マスタリング・エンジニア)ETERNAテープをリマスタリングする際の前提は、オリジナル・サウンドを変えることなく可能な限り最高の状態でオリジナル・サウンドを再現することでした。 全ての作業はオリジナルのアナログ・マスターテープに基づき、マスタリングはそれぞれのテープに対して細心の注意を払って行われました。 アナログ領域のみでサウンド処理されたアナログ信号を96kHz / 24bitの高品位デジタル化後に44.1kHz / 16bit化されました。 また、デジタル領域においてもノイズの除去や、オリジナル・サウンドに影響を与えるその他の修復は行わず、必要最小限のテープ・エラーとテクニカル・クリックのみの修復が行われました。 Berlin Classics所蔵 オリジナル・アナログ・マスターテープ使用 各種リンク【トピック】●このCDの収録曲と演奏●ゲヴァントハウス管とのディヴェルティメント第7番の謎●アーベントロートとモーツァルト●アーベントロートとソ連●アーベントロートとナチ●アーベントロートと戦後【年表】1883・1884・1885・1886・1887・1888・1889・1890・1891・1892・1893・1894・1895・1896・1897・1898・1899・1900・1901・1902・1903・1904・1905・1906・1907・1908・1909・1910・1911・1912・1913・1914・1915・1916・1917・1918・1919・1920・1921・1922・1923・1924・1925・1926・1927・1928・1929・1930・1931・1932・1933・1934・1935・1936・1937・1938・1939・1940・1941・1942・1943・1944・1945・1946・1947・1948・1949・1950・1951・1952・1953・1954・1955・1956【エテルナ・オリジナル・マスター・シリーズ】アーベントロート●ブルックナー交響曲集 (3CD)●ブラームス交響曲集 (2CD)●モーツァルト交響曲集 (2CD)●チャイコフスキー、シューマン交響曲集 (2CD)●ハイドン交響曲集スイトナー●レジェンダリー・レコーディングス (7CD)●ドヴォルザーク交響曲全集 (5CD)レーグナー●マーラー交響曲第3番、第6番 (3CD)●ブルックナー交響曲集 (6CD)【商品関連】●商品説明:年表シリーズ一覧 このCDの収録曲と演奏ドヴォルザーク:チェロ協奏曲1956年の録音なので音質良好。往年のドイツのチェリスト、ルートヴィヒ・ヘルシャー[1907-1996]は、ごつごつキビキビとしたスタイルが、アーベントロートの力強い音楽づくりにぴったり。同時代作品にも強く、ドイツでは聴衆にもプロにも人気のあったチェリストだけに、ドヴォルザークのチェロ協奏曲も、1957年のミュラー=クライ盤、1958年のカイルベルト盤もリリースされていましたが、面白さでは断然アーベントロート盤でしょう。 アーベントロートの「注意喚起型」ともいえる雄弁すぎるオーケストラ・パートのおかげか、ヘルシャーも発奮してなかなかエッジの効いた演奏を聴かせており、質実剛健な音色の味わいもさらに引き立っています。 ヘルシャーは翌年のミュラー=クライ盤では、体調のせいなのか指揮者のせいなのかはよくわかりませんが、冴えない演奏を聴かせています。 また、ヘルシャーは2年後のカイルベルトとの録音では、伸びやかで美しい演奏を聴かせていたので、アーベントロートとの共演での独特の隈取の濃さには、指揮者の影響が表れているようにも思えます。 ちなみにヘルシャーは1953年以降、何度も来日しており、芸大名誉教授でもありました。チャイコフスキー:交響曲第4番1951年録音。終楽章の怒涛の迫力で有名な演奏ですが、第1楽章と第2楽章の情感の豊かさも驚くべきもので、いわゆる「シンフォニック」とは反対の、各素材が語りまくる音楽といった趣です。チャイコフスキー:交響曲第6番1952年録音。濃厚な情念とダイナミズムに彩られた自在な演奏で、第3楽章の締めなどまさにやりたい放題。しかし、第4楽章の嘆きがあまりにも深いので、それまでの3つの楽章はある種のあがき、もがきのようにも思えてきます。シューマン:交響曲第4番1949年録音。交響曲第1番の直後に書かれた交響曲ニ短調は、ブラームスには気に入られたものの周囲の評判が良くなかったため放置され、作曲から10年を経てようやく改訂され交響曲第4番として初演・出版の運びとなります。 アーベントロートのシューマン4番の演奏は、第2楽章や第4楽章序奏部などシューマンのダークな部分にもこだわった表現力豊かなもので、長きに渡って高い評価を得ています。 アーベントロートは1956年の4月にドイツ・シューマン委員会の委員長に選出され、7月に開催されるツヴィッカウのシューマン音楽祭の準備にも取り組んでいましたが、5月29日に脳卒中で死去しています。戻る アーベントロートとソ連数多くのソ連への客演アーベントロートは、1925・1927・1928・1929・1951・1954年にソ連を訪問しており、モスクワとレニングラードで数多くのコンサートを指揮しています。戦前のソ連には、クレンペラーやクラウス、クナッパーツブッシュなど多くの指揮者が招かれていますが、戦後は冷戦ということもあり、渡航者は限られていました。そうした中でアーベントロートのソ連ツアーは目立つものだったようです。1951年にはリヒテルとの共演がプラウダ紙、ソビエト芸術紙に掲載されるなど注目を集めています。ショスタコーヴィチが絶賛アーベントロートは1954年にモスクワでベートーヴェン交響曲全曲チクルスをおこなっていますが、ショスタコーヴィチは「わが首都の音楽生活における喜ばしい出来事」として、その魅力に触れ、アーベントロートは、ベートーヴェンの楽譜の優れた目利きであり、ベートーヴェンの作品に典型的に見られる深い情熱をダイナミックに鳴り響かせ、モスクワっ子の期待に応えたと称えています。ガウクも称賛有名な指揮者、アレクサンドル・ガウクは、アーベントロートがすべての楽器、すべてのエピソード、すべての声部を引き出して、リズム・パターンを鋭く強調しようとすると説明し、そのオーケストラへの欲求の強さについて語っていました。 ちなみにガウクは戦前のレニングラード・フィルでは外国からの大勢の客演指揮者のためにオーケストラの下準備をしていた人物でもあり、ドイツの指揮者たちの芸風にも精通していました。戦前の成功と出版、講演そしてそのレニングラードで、アーベントロートは1929年にブルックナー第5番のレニングラード初演を指揮しており、さらに、独墺ものだけでなく、チャイコフスキーの第5番でも成功を収めていたのです。 なお、アーベントロートは、多くの客演経験をもとに、ソ連に関して肯定的な旅行記をリベラル全国紙「ケルニッシェ・ツァイトゥング(ケルン新聞)」に載せたことや、ケルン大学で講義までおこなっていたこともあってか、たとえば独ソ戦のさなかでもレニングラードのホールからアーベントロートの肖像写真が外されていませんでした。戻る アーベントロートとナチナチ政権成立以前アーベントロートの一連のソ連ツアーは、アーベントロートに危機をもたらすことになります。 アーベントロートは1918年に社会主義者の訴えに共同署名していたほか、戦前のソ連ツアーの際、アーベントロートは「私のロシア体験記」をケルンのリベラル全国紙「ケルニッシェ・ツァイトゥング(ケルン新聞)」に載せたことや、ケルン大学でソ連を題材に講義までおこなっていたことで、それがのちにケルン=アーヘン大管区指導者ヨーゼフ・グローエ[1902-1987]から「文化ボルシェヴィズム」だとして非難されることになります。 さらにアーベントロートは、グローエに非難される前の1928年には反ユダヤ主義的なドイツの講演組織「西部ドイツ国民講義講堂」から名誉会員に選ばれますが、関わることを拒否したため、これもナチ党に睨まれる要因になっています。ナチ政権成立〜ケルン時代また、ユダヤ人と親しかったアーベントロートは、もともとの姿勢が反ナチ的でもありましたが、ケルンで遭遇した一連の政治的な出来事は、アーベントロートの人生に影響を及ぼすことになります。 まず1933年3月、恩人でもあるアデナウアー市長がナチ突撃隊の襲撃をかわしてギリギリの状態でベルリンに逃亡するという事件が起き、翌月には、同僚で同郷・同門・同年齢(生年月日が一か月違い)のブラウンフェルスがユダヤ系のためケルン音楽大学の共同学長を解任されています。…
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